3月生れ
捧利久厩務員(2日) 若井信夫厩務員(2日) 飯塚直仁厩務員(3日) 今野忠成騎手(4日)
内山武義厩務員(4日) 佐竹隼厩務員(4日) 大芝剛厩務員(5日) 吉留渡厩務員(7日)
安池政夫厩務員(8日) 秋山重美調教師(11日) 小山裕行厩務員(11日) 佐藤正文厩務員(11日)
島田浩二厩務員(11日) 福田和浩厩務員(11日) 久保秀男調教師(13日) 清和鑛一厩務員(13日)
佐藤文夫厩務員(14日) 岡村裕基騎手(16日) 荒木道哉厩務員(16日) 下モ内清志厩務員(16日)
須山泰弘厩務員(18日) 西田一厩務員(19日) 佐藤文雄厩務員(20日) 沢居松五郎厩務員(22日)
堤正克厩務員(23日) 大和田五郎調教師(26日) 内田崇之厩務員(26日) 中原義正厩務員(26日)
松岡龍一厩務員(26日) 市川貴之厩務員(27日) 大和田明調教師(28日) 安池成実調教師(28日)
照沼一二調教師(29日) 高橋俊和厩務員(31日) 波多野敬二厩務員(31日)
                                  


    *** 堤 正克 厩務員<津久井 巌厩舎> ***

 NARグランプリ2003で川崎競馬所属として「優秀厩務員賞」を受賞した堤正克厩務員が川崎にやってきたのは昭和30年のこと。第1回県営川崎競馬の開催が昭和25年の1月だからその歴史の殆どを供にしていたことになる。東京は文京区小石川生まれ。3〜4歳の頃、相場師だった父親が亡くなり母の実家の千葉に移り住むと近くに御料牧場があった。そこには馬車に用いられる馬がおり、ちょっと足元がおかしいような馬が子供たちの格好の遊び相手であった。小柄な堤少年は「騎手にならないか?」と見込まれ18歳で大東牧場を経て下乗りのあんちゃんとして中山競馬場に入った。が、しかし、当時は今のような騎手学校が整っておらず騎手になることはおろかいつになったら馬に乗せてもらえるのかも分からない日々が続いた。「牧場でさ、楽しいことは覚えちゃってたし、今更丸坊主だとかアレやっちゃダメだとかそういうのがイヤで」担当していた馬とともに夏競馬の行なわれる函館へ。「その馬が結局函館使わないで船橋に行くっていうんで一緒に行って、そのあと大井に移ってそれでそのまま馬と一緒に大井。(笑)」その頃から先に川崎にいた先輩から「川崎に来い、川崎来い」と言われていた堤厩務員、厩舎に4千円の借金があることを理由に断っていたのだが「一頭4千円、2頭で7千円の時代。今でいったら10万くらいかな?杉村調教師(杉村勝実調教師の父)に会いにいったら目の前にど〜んって4千円置かれてさ、参った〜」以来、昭和34年まで杉村厩舎、師の引退まで鈴木春吉厩舎に所属、現在の津久井厩舎に移って4年である。
長い厩務員生活で思い出の馬はキートザボルト。当時珍しい外国産馬で年に10回と出走回数が限定されていたが、その中で山崎尋美騎手を背に連戦連勝を重ね、82年の報知オールスターカップでは2着。その後、種牡馬としてはハクバマーチを輩出した。その他大井記念を佐々木竹見騎手で勝ったジュラク、久保勇騎手でテレビ埼玉杯を勝ったケイシュウタイムなど。現在はシティーボーイ(セン8)とスカイドラゴン(牡3)を担当。表彰を受けて「何で俺なんかが?」と思う反面「下手なことは出来ない」というプレッシャーも感じるという。馬に対する考えは若い頃と一つも変わらない。23日で68歳、これからの目標を聞いたら「うん?遊ぶことかな?『英雄色を好む』ってよく言うでしょう」一度きりの人生、公私ともども「現役バリバリ」宣言まで飛び出した。ちなみに杉村師から渡された4千円は仲間と街に繰り出して一晩で無くなってしまったそうだ。

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