12月生れ
藤沢武志厩務員(2日) 梅山和則調教師(3日) 橋階信夫厩務員(3日) 富士木和男厩務員(3日)
扇克全厩務員(4日)  山崎裕也厩務員(5日) 小島由起夫厩務員(6日) 佐々木仁調教師(9日)
吉村徹厩務員(11日)  間瀬留清厩務員(12日) 吉田榮厩務員(12日) 北村純一厩務員(13日)
古沢悟厩務員(14日) 渡邊幸樹厩務員(14日) 原田剛厩務員(15日) 山田質厩務員(15日)
大隅信厩務員(16日) 堀哲也厩務員(16日) 世安智也厩務員(19日) 高月由次調教師(20日)
久保ひろかず厩務員(24日) 与那嶺盛光厩務員(28日) 植村岳史厩務員(31日)
                                                                             

     山崎 裕也 厩務員 <山崎尋美厩舎>

 なんてパワーのある人なんだろう。話を聞き始めてそう思った。押されちゃうようなパワーではなくこっちも元気になるような話していて心地よくなるような不思議な力にあふれている。
 祖父である故山崎三郎調教師、父・山崎尋美調教師、母の父(故滝沢調教師)もまたが騎手から調教師という競馬界のサラブレット。弟は騎手として活躍中の山崎誠士騎手である。本人は逆に小さいころ「馬が嫌いだった」という。親戚からは「騎手の道は当然」とばかりに勧められるプレッシャーは大きかった。
 それでもがんばって体作りをして一度は中央と地方の騎手試験を受験したが視力が悪く不合格。高校へと進学したもののバーテンダーという仕事に憧れ中退して夜の世界に飛び込んだ。しばらくして遊びたくてもお金が足りないからと夜はバーテンダーの仕事、そして早朝からは厩舎で手伝いのアルバイトを始めた。
 最初はお金欲しさに始めた厩舎の手伝いだったが次第に馬に魅かれる自分がいた。改めて家業のすごさに気づいたのだった。
 「パドックで堂々と馬を引いてみたい」。厩務員という仕事への興味がわいた。そんな彼の変化に周りも気づいたのだろう、半年後急に北海道行きを勧められた。
 行き先はあの社台千歳ファーム。しかし当時は社台ファームの偉大な業績すら知らず「スノボーができるから」と軽いノリで向かった。
 最初の1年は繁殖牝馬の世話から始まった。アグネスフローラ、ダンスパートナー、スカーレットブーケ、ファビラスラフィン、サドルチェンジなど社台の名牝ぞろいだった。そして育成担当になると「騎手になっておけばよかった」と思うほど馬に乗ることの楽しさも知った。一方で馬産地にあっても中央と地方の壁は大きく、人も馬も扱いが違うことに地方は見下されてるような悔しさと憤りも感じた。
 社台での3年間、「帰ってきてからすごく反省点が多くて。けど牧場での経験はとても大きい。馬の原点から学べたから」と今、あらためて思う。
 区切りの3年間を終えたとき山元トレセンで引き続き牧場の仕事をする話もあったが、選んだのは再びバーテンダーの道。そのほかにもいろいろな仕事をして「仕事はお金じゃない」と痛感したという。
 そんなある日、内田調教師、佐々木仁調教師、そして父である山崎調教師の3人が勤め先に立ち寄った。「馬の仕事やると思ったのになあ・・」としみじみいわれたときもう一つの道を選んだはずの心が揺らいだ。
 その後、家族で牧場めぐりをする機会があり、弟が騎手候補と紹介されると揺らいでいた心はさらに振り幅を広げ、結局昨年10月に「厩務員」というの血の夢を求めて川崎に帰ってきた。
 11月から本格始動し12月には厩務員として本認定を受けた。11月の開催でいきなり初勝利。しかしこの時はそれまで別の人が手がけていたこともあり喜びはなかった。担当馬に弟の誠士騎手が乗り2勝目をあげたときは自分なりに工夫して出た結果だと「この嬉しさはやみつきになるくらい。大はしゃぎで口取り写真におさまりました」と振り返る。
 たとえ厩舎育ちだろうと厩務員としては一年生。とにかく何でも人に聞く。「はずかしくない」とわからないことは素直に聞き、他の人のいろいろなやり方を見て参考にし自分なりの工夫を加える。「レースは自分にとってテスト」だという。勝てなかったらその調整の仕方が合ってないということ、最大のコンディションでレースの出すための要因を模索する毎日だ。
 「夢は父と弟と3人でウイナーズサークルに立つこと。でも自分的にはまだ早いな。」
といいつつ目を輝かせて話すあたり夢も遠くではないかもしれない。
「今は馬主さんにありがとうって言われるのがうれしくって」と屈託ない笑顔。12月5日で23歳になった。
2004年12月号
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