伊藤勇起厩務員(1日) 沖野耕二騎手(2日) 榎智恵子厩務員(2日)
米田弘一厩務員(2日) 新井健児厩務員(8日) 木村良二厩務員(9日)
鈴木昌浩厩務員(11日) 三上慎太郎厩務員(11日) 須藤俊明厩務員(12日)
竹本和矢厩務員(12日) 長谷川茂調教師(13日) 横山努厩務員(14日)
市村豊厩務員(15日) 坂下光弘厩務員(17日) 伊澤真厩務員(18日)
佐藤利光厩務員(19日) 林宏史厩務員(19日) 斉藤美宣厩務員(20日)
日名子武史厩務員(20日) 柳田剛厩務員(22日) 岩本洋調教師(23日)
森田祐介厩務員(24日) 佐々木宗男厩務員(29日)


長谷川 茂 調教師
                                   
 誕生日当日は本人もすっかり忘れていたというが、朝の調教馬場で安池成実調教師に「おめでとう!」といわれ思い出したという。夜になってお子さんに「おめでとう」とそっといわれたと嬉しそうに話してくれた。4月13日で57歳になった。
 実家は小向厩舎の近所で建築業を営んでいた。今のように厩舎を囲む塀がなく家の近くを馬たちが運動して歩いていた時代。小さい頃から動物好きで馬を見ているうちに乗りたいと思ったという。とにかく馬が好きで好きでしょうがなくて厩舎に遊びに行っているうちに故・井上宥蔵調教師からこないかと誘われた。小柄な身体と運動神経が見込まれたのだ。井上厩舎に弟子入りしたのはなんと小学校4年生、10歳のときだった。それから下乗りしながら学校に通い中学卒業後は教養センター第9期生として入った。
 騎手時代のことは昭和50年7月キョウユウマリでのレコード勝ちに今もその名を刻む。しかしながら「印象があまりなくてね。レコードは勝ってついて来たに過ぎないものだから。キョウユウマリは先行馬であの日は馬場が速かったとしか覚えていない。田村さんがカネショウボーイでレコード出したのもあの日。1日に二つもレコードが出たんだ」という。ハヤシゲルではキヨフジ記念を制した。「ゲートが悪い馬だったね。この時も確かゲートから斜めになって出て、それでもハナ行って押し切ったんだ」と話す。
 川崎の騎手会は現調教師会長の岩本洋師が初代会長、そして2代目会長がと長谷川師だった。調教料の実現を果たすなど騎手の立場を確立するために奔走したという。周囲からも「とにかく面倒見のいい人で後輩思いだった」と聞く。
 調教中の落馬により脊髄を損傷する大怪我をして引退。まだ32歳の若さ。13,4年騎手生活だったが、1000勝も達成。佐々木竹見さんが505勝した年には年間130勝。「この年は自分の誕生日あたりまでリーディングだったんだが竹見さんに一気に追い上げられてね」と笑う。短いながらも中身は濃い騎手生活だった。
 引退後は調教師に転身。開業までの一年は見習い、それから4馬房からスタートという決まりがあって楽なものではなかった。調教師生活は騎手生活を超える年数になったが「今のとこ悔いだらけ。好きだけではやっていられない」という。 インタビューの間奇妙な泣き声がするので「なにがいるんですか?」と聞いたらなんと「カラス、名前はラス」。奥様も動物好きで巣から落ち羽を折った雛を助けそのまま家族の一員になってるのだそうだ。
 とても手際のよい器用な先生だと思った。厩舎の入り口はガーデニングテラスで季節の花々が鮮やかな色どりを添えている。すべて手作り。話をしながら、厩舎前の寝藁の掃除から始まり馬具の修理まで話しながらてきぱきと済ませてしまった。時間の使い方に無駄がまったくなく上手に使える人なのだと感じた。

2005年4月号
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