鈴木章友厩務員(3日) 森下博騎手(4日) 井上啓厩務員(6日)
今井輝和調教師(7日) 鬼沢裕充調教師(9日) 相沢新七調教師補佐(10日)
塩野照義厩務員(10日) 松木秀典厩務員(10日) 青田圭厩務員(13日)
吉橋淳一調教師補佐(15日) 甲田悟史厩務員(15日) 千葉松男厩務員(15日)
津田法人厩務員(17日) 福島幸三郎調教師(18日) 新美哲孝厩務員(19日)
高木伸二厩務員(20日) 高橋薫厩務員(20日) 松井孝一厩務員(23日)
島川和章厩務員(24日) 内山義信厩務員(25日) 遠藤喜宏(25日)
乙川正樹厩務員(28日) 藤田隆幸厩務員(29日)


島川和章厩務員(長谷川三郎厩舎)

 昨年の羽田盃。トキノコジローの強烈な末脚は一年経った今も忘れる事は出来ない。所属厩舎を超えてコジローの調教を全面的に担当していたのが島川厩務員だ。
  
 生まれは兵庫県。高校時代はちょうど競馬ブームの時期だった。「騎手って格好いい」と憧れ、北海道の牧場に馬の勉強に行った。しかし残念ながら視力が悪く、騎手の夢は諦めるしかなかった。
 ところが、その北海道で運命的な出会いがあった。川崎の飯島二郎調教師を紹介された事だ。今でも「自分のテキ(調教師)」と仰ぐ想いは変わらない。
 飯島厩舎で働き始めてからカウンテスヒカル(東京ダービー・カネショウゴールドのB着)などを担当した。しかし交通事故にあったことで一度は実家へ戻ってしまう。
そんな時、飯島調教師から実家に電話があった。
「もう一回馬の仕事をしてみないか? いい馬がいるから。騎手だけが馬の道ではないのだから。俺の右腕になってくれ」。まさに運命の言葉だった。「あの先生がいなかったら今の自分はなかった」とはっきりそう言い切る。
そしてまた尊敬する飯島調教師の下で働き出す。
「いい馬がいるから」と言った調教師の言葉通り、ダービー6着のジャンボパークなどを担当する機会に恵まれた。
「来春も楽しみなのがいるからな」そう聞いていた矢先、飯島調教師が逝去。「厳しい先生だった」でもそれ以上にやさしさのある調教師だった。飯島師が亡くなってから「自分の中に何か欠けてしまったものがある」ように感じる事もあるそうだ。

 現在は長谷川三郎舎に所属。普段は一頭の世話をし、一日八頭くらい調教をつける調教厩務員である。通称赤帽と言われる島川さんのような存在は現在川崎に95人ほどいる。赤帽の人達は、通常ファンの目に触れる事はないが、活躍が目立つ川崎馬にとって欠かす事の出来ない大切な存在だ。まさに縁の下の力持ちである。
トキノコジローの活躍も島川さんの陰の支えがあったからでこそ。しかし本人は「自分は攻め馬をしていただけ」とさらっと言う。
コジローに関しては「とにかく最初から走るのはわかっていた。でも気性が悪くて、キツイところがあった」そうだ。激しい気性を御して仕上げる苦労は想像に易い。
そんなコジローの背中は、以前担当したカウンテスヒカルの乗り味に似ていたそうだ。その後コジローは中央入りしたが、まもなく古巣に帰厩することが決まったという。豪脚の復活は待ち遠しい。

この島川さん。輝かしい経歴の持ち主でもある。何と12年のキャリアの中で5頭のダービー出走馬の背中を任されているのだ。
カウンテスヒカル、ジャンボパーク、ラビットシンフォニ、トキノアジュディ、そしてトキノコジロー。
これ程までのダービー出走馬の調教を任されるのは周囲からの信頼の証といえるのではないだろうか。

3月に追い切りで右肘を骨折してしまいもっか療養中だが経過も良く騎乗開始。誕生日である5月24日は仕事に復帰しているだろうが、「特に何もしない」のが恒例なのだそうだ。今年はまさに川崎競馬の開催中。いつも通りに馬と一緒に過ごす34歳のバースデー。「ケーキくらいは食べます。」との事だ。

馬と川崎競馬を想う気持ちが非常に強く感じ取れる人である。尊敬してやまない師匠から学んだ事を大切にして、そして実践している姿が心に残った。

2005年5月号
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