さようなら…ドルフィンボーイ
<1997年1月号より>
     
 12月4日3時35分。4歳にして優勝した東京大賞典以来2年ぶりに戦列復帰を果たしたドルフィンボーイだったが、スタートした直後にガクンと躓いた。「バキーッ」と大きな音がしたという。それでも走りつづけたドルフィンボーイがようやく脚を止めたのは3コーナーを過ぎたところだった。
 ホクトベガが地方V8を決めたその同じ舞台で、あまりにひっそりとした最後だった。

 「これでよかったのかもしれない。オレだって、ああいう風に死にたい…よ」馬主の芹沢精一さんに言われてハッとした。
 誰よりもドルフィンボーイの復活を待ち望んでいた人。そうでなきゃ、2年もの間、手を尽くすはずがない。企業戦士にとっての死に場所が会社なら、競走馬にとってレースで散るのは本望なのかもしれない。
 ドルフィンボーイは母から稀代の俊脚を譲り受けていた。そして気性の激しさも。
 「不受胎が続いたので静岡の乗馬クラブに譲ったところ、父の判らない仔を身ごもっているという連絡がありました。それで再び繁殖に戻しましてね。翌々年に受胎したのがドルフィンボーイです」
 ドルフィンボーイは宿命の仔。
この母カネアザミはドルフィンが東京大賞典を勝った年に廃用されている。そして父ルイヴルサミットも同じ年、精虫のなくなる病気に突然かかって九州の乗馬クラブに転用された。
 もしも、気性難がなかったら、種牡馬という道もあったかもしれない。乗馬に転向しても均整のとれた馬体は目を引いただろう。でも、ドルフィンボーイには走るしかなかった。
 いつも気性との闘い。レースでもハナに立てないことには話にならない。休養させたくても受け入れ先がない。調教さえ担当厩務員の池田孝さんが、自ら跨るしかなかった。それも他馬がいない静まりかえる時間になってからのことだった。
 そんなドルフィンだからこそ、復帰に向けて調整にも時間がかかった。
競走馬が費やす丸2年は、とてつもなく長い時間。中央遠征を断念した直後に大手術。そして広島の装蹄師さんの元に預けての治療が始まった。北海道を経由して、復帰のメドが立たないまま厩舎に戻ったのは1年前のことだ。
 悪夢の翌々日、厩舎の馬頭観音で小さな葬式が行われた。
ドルフィンボーイはすでにタテガミだけになっていた。佐々木国広調教師をはじめスタッフの誰もの背中が、後悔と無念で震えていて、かける言葉がなかった。
 走るために生まれて、そのまま駈けぬけたドルフィンボーイよ、安らかに…。12戦7勝。戸塚記念、東京王冠賞、東京大賞典制覇という輝かしい成績を残して。
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